逃亡見聞録_d

南から逃げてきた

反劇的人間

やる気が起きない。というか、今までの人生でやる気があった時なんて、ほぼなかったような気がする。

小中高大、学生時代は一貫してやる気を出せと言われ続けた。基本的にめんどくさがりで小賢しい人間なので、自分が興味のない物事は人のやり方を真似したりしてやり過ごしてきた。グループ作業なら、「そういうのいいね」「なるほど」。肯定的な相槌に終始する。それなら非難を浴びる事はない。

自分の興味が惹かれる物事に関してはどうだろう。と思うのだが、これも他人が介入してきた途端に、やる気がなくなる。大学在籍時、サークルでやっているバンド活動に、無関係な古株が口を挟んでくると急速にやる気が失われていた。

このまま、社会人になってしまって良いのか?と不安もあったが、二つほど、気づいたことがある。

一つ目、自身の興味がない物事はやり過ごすべきなのだ。むしろ、この姿勢を社会人として洗練させる必要を感じている。時間は有限なのだし、どうでもいい事象に構うなんて無理ですよ。やり過ごす手法としては、今のところ、「自信無さげに仕事を受け、ある程度まで手をつけたら人に投げる(泣きつく)」がベストプラクティスなのだが、最近は泣きつく相手が自分よりもやる気がない人物である場合も多くなってきた。どちらにしろ、キャリアを積んでいくにつれて使えなくなってしまう。まだまだやれるはずだ。

二つ目は、古株のアドバイスは本気で役に立たないので真剣に受け止める必要はない。これは古株が仕事できる/できないは関係ない。なぜなら、新人や若手にアドバイスしようと考える人間は、まず、相手の理解力やら、どこまで知見があるのかやらを大体把握していなければならない。しかし、そんな七面倒な事は誰もやらないだろう。それに、手前勝手なアドバイスをするよりも、相手の質問に真摯に答えてあげる方が有意義だろう。ならばなぜ、俺の話を聞けとばかりにアドバイスする輩が絶えないのか、彼らは決して馬鹿ではない。ただ、「後輩が話を聞いてくれる」事象に執着している。この東京砂漠、自分の言葉に肯定的な相槌がひたすら返ってくる感覚を追い求めているのだ。一度は皆、耳にしたフレーズ「頻繁に顔を出すOB」。馬鹿にしてはいけない。誰しもが心の隅にこいつを飼っている。他者肯定感を欲しがっているだけなのだから、いくらでも愛想をプレゼントしてあげればよかろう。

この二つに気づけたのは、社会人三年目にして大きな進歩だった。生きていける。やる気がなくたって、俺は生きていくぞ。